思いは言葉に。

感情のゴミ捨て場

忘れないように

27年生きてきて、毎年人生で1番大好きだった人のことを思い出す。
後にも先にもあんなに他人を好きになることはないと思う。
当時の私は薬に溺れていて、今以上に自分のことばかり考えていて思いやりのかけらもないような人間だった。
そんな私を心の底から愛してくれて、それを行動で示してくれるような人だったから、何年も経った今でも忘れられない。
今ではどこで暮らしているのかも、生きてるかどうかさえもわからないけど。
初めて他人に対して、元気で生きててくれればなんでもいいと思えた。
家族でさえもそんなこと思えたことはない。
私はそう言う人間なんだと自分でもわかっている。
人と出会いや別れを繰り返して、いなくなった人間にこんな事を思うことはなかった。
冷たいと思われても仕方ないが合わなくなって関係がなくなった人間に対しては、お互い別々の場所で幸せになろうね、また機会があれば楽しく話しましょうさよなら。
くらいに思っているので、他人がいなくなって数年引きずったことは生きていて初めてだった。
それくらい私にとってとても特別な人だった。
彼は私達の関係のことをふざけ半分でソウルメイトと呼んでいた。
私は今でもその呼び名を気に入っている。
とても不思議な人だった。
出会って仲良くなってから過ごした時間だけで言えば2年、もっと言えば常に一緒にいた時間なんて1年もなかった。
当時の私は常に眠剤か安定剤を飲んでいて、その頃の記憶なんてほとんどまともに覚えていない。
とても勿体無いことをしたな、と今なら思う。
そんな中でも一緒に見た映画、一緒に行った場所、初めてもらった花束やその後毎月くれていた花の種類は覚えている。
彼が言ってくれた優しい言葉や嬉しい言葉を今でも鮮明に覚えている。
当時の私は今と変わりなく、文句ばかり出てくるような人間だった。
その当時は自分が無い物ねだりな事や、全ての文句や悩みの原因の9割が自分であることにすら気付けていなかった。
今の私が当時の彼と出会っていたらいくらか違う関係が築けたのではないかと、そんなくだらないことすら考えてしまう。
私は彼の話を聞くのも、私の話を聞いて共感してくれたり興味を持って質問してくれたり、時には悲しかった事を悲しかったねと言って抱きしめてくれる事も、一緒に過ごす時間全てが大好きだった。
正直もう顔も声もまともに思い出せない。
私は人の顔も声も名前も、覚えることが苦手だ。
先日受けた心理検査で、私の不得意なことが目から入ってくる情報を処理する事や覚える事だと知った。
たしかに長年一緒に過ごした父親でさえも顔や声を覚えていないことに、数年越しにお見舞いに行った時に気付いた。
なので私が今思い出している大好きだった人は、私の中で都合よく作り変えられた幻想の人物なのかもしれない。
それすら自信を持ってそうではないと言い切れない。
私はそれくらい自分のことを信じられない。
でも私が覚えている限りの言葉や、記憶の中のその人は間違いなく親よりも私を大事にしてくれて私の話を聞いてくれて、私のために動いてくれる人だった。
他人に救われたのは記憶にある限りでは後にも先にもあの期間しかない。
ふとその人の話をする機会があり、話しているうちに忘れてしまっていてそれでも大好きなことに変わりはないと思い出したので、忘れないようにここに書き留めようと思いこうして眠い中ブログを開いた。
ここらからは今まで以上にちゃんとした文ではなくなるが、忘れないように嬉しかったことを書き留めたいと思う。



そう思って書き連ねていたらとても悲しい気持ちになったのでやめた。
彼との思い出は自分の中に閉まっておくことにする。
気付けば27歳になっていた。
私は早生まれなので、私と同じ学年の友人らはもう続々と28歳になっている。
私も年が明ければすぐ28歳になってしまう。
彼は何歳になるだろうか?
たしか私が21歳だった時に29歳だったので、今だと36歳だろうか。
何歳でもいいので幸せに暮らしていて欲しい。
自分でもあまり自覚のないうちにいい歳になってしまった。
私が小学生の頃に思っていた27歳とは随分かけ離れた27歳になってしまった。
最近はその事について少し悩まされている。
今の暮らしは割と自由で好きな人達にそれなりに愛され大事にされていて、昔の私が望んだ生活そのものだと思う。
その好きな人達の中に彼がいない事だけが私の人生最大の後悔だ。
人生をやり直したいかと問われれば、特に今の人生に不満はないしやり直したい気持ちはない。
ただあの時のあの人にもう一度会って話せるのなら、少しの時間でもいいのであの時のあの人に会い昔聞かなかった事や、話せなかった事を出来るだけ沢山話したい。
この先も書き留めたいことが沢山あったのに眠剤が効いてきたので寝る事にする。
とにかく隣の芝は青い。
私は現状に満足して一緒にいてくれる人に感謝し、相手を大事にして生きていきたい。
こんな意味のわからない終わり方になってしまった。

我慢していたことたち



いつからだったかは忘れたけど、小さい頃から我慢ばかりしてきたなと思う

その反動で大人になってから好き勝手しすぎて色々な人に迷惑ばかりかけている





父は私が中3の頃に家を出て行ったが、それまで一緒に家族4人で暮らしていた

父は怒ると手のつけられない人だったので一緒に暮らしていた間、私は家の平和のためだけに父が怒らないよう常に気を張っていた

家も家族も好きだったので外に出るとか私がグレるとかそんな選択肢は最初から存在しなかった

そんな風に守っていたはずの家族も結局はバラバラになってしまったけれど




私は中高一貫の私立の学校に通っていた

お嬢様学校なんて呼ばれていたりして、そんな大層な所ではなかったが裕福な家庭で暮らす子は周りに多かった

うちが貧乏だったわけではないが正直周りが親に金銭で甘えられる事がとても羨ましかった

妹はバレエを習っていたしお金はあった方だったかもしれない

親は必要なものは言えば買ってくれていた

でも私は変な所ばかり遠慮しいだったので電子辞書も新しい制服も買ってなんて言えなかった

中学生の妹は電子辞書を持っていたが、私は中高の6年間電子辞書を買ってもらうことはなかった

一度母親に買おうか?と聞かれた事があったが紙の辞書があるから大丈夫、と断ってしまった

学年で電子辞書を持っていないのは私1人だけだった

授業中に当てられた時紙の辞書で探すのが遅いと先生に電子辞書持ってないの?と言われ教室で少し笑いが起こったのを覚えている

制服もジャージも6年間着続けた

袖がぼろぼろなので恥ずかしくていつも腕の部分を折って着ていた

今となってはそんなことを我慢したり言えなかった自分が悪いとしか思っていない




電子辞書と制服の話を大人になってなんとなくした時に、気づいてあげられなくてごめんねと母に謝られた事がある

正直ますます悲しくなるのでやめて欲しかった

他の人にも涙目になられた事があったのでこの話を誰かにするのはその時にやめた





悲しかったことを話すのは、謝ってほしいとかわかってほしいとか同情してほしいからではない

ただ黙っているといつか悲しい気持ちでいっぱいになってしまって普通に生きていけなくなるのが怖いから吐き出してしまいたいだけ

最近は自分の中の悲しい気持ちがいっぱいになって攻撃的になった時、誰かを傷つけてしまうのではないかと自分が怖くなる

だからこそ私のこういう話をただ頷いて聞いてくれる人に出会えた時とても救われた気持ちになる




今年から実家に帰ってきて暮らしていて、去年よりは絶対に安定した普通の生活ができているし、心身共にここ数年で1番マシなのにやはり根底にある暗い気持ちが消えることは無い

切り替えが上手くなってきて、そういう気持ちになってもすぐに前向きな気持ちになれていたので、今月に入って何もかも上手くいかなくてついにここ2日間外にもでずほぼ寝て過ごして久々に死んでしまいたくなるくらい辛い気持ちになった






こんなことを言ってもどうにもならないし仕方ないのだけど、言うだけタダでだれもこんなもの読んでいないのだからここでくらい許してほしい

誰に許しを求めているかさえもわからないけれど





明日からは仕事に行かなきゃいけないし、これ以上休むわけにもいかない

何よりそんなことをしたら私自身が私の事をもっと嫌いになってしまう

私は母とわんこが生きているうちは自分のことを大事にして生きていくと決めているので、こんな事を考えたりするのは一旦今日で終わりにしなければならない

大丈夫、私ならちゃんとできる

そう思わなければ生きていけない



思い出しても仕方がないこと


大雪の日は耳が痛くなる

多分気圧の関係だろうけど、精神科に通うようになって年々気圧に弱くなっている気がする

耳の痛みと吐き気がひどい


こういう日は子供の頃にあった悲しいことばかり思い出してしまう

気圧のせいだから仕方ないと言い聞かせても具合は悪いし涙は出てくる


大人になってから起こった理不尽な事や悲しい出来事は大体自分の中で消化して寝て起きたら忘れられている事が多い

幼少期の頃のことはいつまで経っても消化できず調子の悪い時に思い出してしまうのはどうしてなのだろう?


もっと上手く言葉にできていたら、今みたいに対処の方法がわかっていたら少しは違ったのだろうか?そんな考えても仕方がないことばかりが頭に浮かんでくる


調子の悪い日は出来るだけ考えるのを休んで、涙が止まらなかったら眠剤を飲んで寝てしまうのが1番いい


自暴自棄になったり人に迷惑をかけるよりはマシだと言い聞かせて、寝逃げによってここ半年はODも自傷行為もせずに済んでいる


いつまでも子供じゃないし歳だけで見ればもういい大人なので、ずっと泣いてるわけにはいかない


楽しい出来事はわざわざ人に話さなくても満足できるのに、悲しい事はどこかに吐き出さないと徐々にしんどくなるの不思議だな


小5の冬、耳が痛いという私を連れて母が知り合いの家にお米を貰いに行った時があった

私は5キロのお米を抱えて母と友達の家に遊びに行った妹を徒歩で迎えにいった

耳が痛いことを伝えると母は気のせいだと言った

母も子育てに疲れていたのだと思う

私がたまに変なことを言うと気のせい、とか思い込みだと言われることがあったのでその日もその様に言われたのを覚えている

私は耳が痛くて早く家に帰りたかった

小学5年生だったので1人で家に帰ることはできた

でももう少しだから待ってと言われ、妹を迎えに行った先の玄関で親たちの話が終わるのを待っていた

私は鈍臭い子供だったから紙袋の口が開いているのに気付かずにお米の袋を持ち直そうとした

当たり前にお米はその家の玄関にぶちまけられて私は怒られた

母はかなり怒っていて怒鳴られたと思うけど耳が痛すぎてあまり聴き取れなかった

その日は部屋から出てくるなと言われて次の日まで部屋から出なかった

見たいドラマがあったけれど耳が痛くてすぐ寝たと思う


たまにこんな事を思い出しては涙が出てきてしまう

母も年々丸くなり昔とは少し違うので今更こんな事を言ったところで何にもならない

だからわざわざ話したりはしないけれど、私だけがずっとその場に取り残されている様なそんな気持ちになる


気圧をどうにかする事はできないし、もう調子の悪い時があるのは仕方がない事だと思っているけれどこれからの仕事や生活のことを考えてしまい不安になった


寝て起きたら気持ちが切り替えられているといいな

三日坊主

昔から思った事を文字にするのが好きだった

高校生くらいまではノートに大学生になってからはSNSに思った事を書くようにしてた

19歳くらいから文字にすることは大体悲しいことや見た人がいい気持ちにならない物が多くなった

本当はもっと前からだった気もするけど多分SNSに書くようになって気になりだしたのかもしれない

TwitterInstagramも友達や知り合いが見てることが多いので最近は出来るだけ我慢して自分の醜い感情はフォロワー0のアカウントに吐き出してた

ただ私には気持ち悪い承認欲求があるので自分の書いたことが絶対に見られない状況が不満だった

誰に見てもらえなくてもいいから誰かが見てくれているかもしれないと思いたかった

TwitterみたいなSNSは嫌でも目に入ってしまうからブログなら気になった人しか見ないだろうなっていう

ただの言い訳

いつも三日坊主だし存在も忘れて削除もしてないままのブログが今までも沢山あったのでこれもその一つになるかもしれない

はてなブログにしたのは私の好きな人がはてなブログをしていたから

Twitterでしか知らない顔も性別も何もかもわからない文章だけで好きだなと思ってる人

私は文章を書くのは好きだけど文章力はないしその人みたいなきれいな言い回しは出来ないけど

とりあえずは飽きるまでここを感情のゴミ捨て場にする